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東京高等裁判所 昭和57年(う)159号 判決 1982年8月30日

被告人 池田和生

昭二五・二・一九生 漁業協同組合職員

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役一年に処する。

原審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人山元博、同伊藤孝雄共同作成名義の控訴趣意書に記載されたとおりであり、これに対する答弁は、検察官窪田四郎作成名義の答弁書に記載されたとおりであるから、これらを引用する。

第一控訴趣意第一点(事実誤認の主張)について

一  本件の争点及び判断の順序

論旨は、要するに、本件各犯行当時、本件車両を運転していたたのは被告人池田和生ではなく、原判示第二の交通事故により死亡した石原幹雄(以下「石原」という。)であるから、本件各犯行につき被告人は無罪であるとして、その有罪を認定した原判決の事実誤認を主張するものである。

所論は、本件事故発生当時、被告人が運転席に、石原は助手席にそれぞれ乗車していた可能性があるとする原審鑑定人鈴木勇、同樋口健治の各鑑定結果は措信するに足りず、石原が運転席に、被告人は後部座席に乗車していたものとする同鈴鹿武の鑑定結果を信頼すべきものとして、その立論の根拠に援用している。

そこで、右各鑑定結果を比較検討して原審事実認定の当否を審査することとする。

然るところ、原判決は、その前提となるべき本件事故発生に至るまでの経過並びに本件事故現場及び本件車両の損傷状況等につき何ら判示するところがないので、原審訴訟記録に照らし、まず、これらの点から検討を進めることとする。

以下の叙述において、原審における証拠の標目を引用する場合には、便宜、左の略号を用いることとする。

(公) 公判廷における供述又は公判調書中の供述記載

(証) 証人尋問調書

(検) 検察官に対する供述調書

(司) 司法警察員又は司法巡査に対する供述調書

(報) 捜査報告書、写真撮影報告書

(実) 実況見分調書

(鑑) 鑑定書

(診) 診断書(死亡診断書を含む。)

(酒)カ 酒酔い酒気帯び鑑識カード

なお、書類の作成日付の表示については、昭和四九年一〇月九日付を「49 10 9付」とする例による。

二  本件事故発生に至る経緯

(証拠略)を総合すれば、以下の各事実が認められる(関係者の年令、肩書等は、本件事故発生当時である昭和四九年一〇月九日現在のそれに依る。)。

(1)  被告人は、富津市湊二六〇番地所在の富津市役所天羽支所産業課農林係に、浅野幸雄(当二六年、以下「浅野」という。)は、同支所住民課に、石原(当二六年)は、同市役所本庁民生部公害課に、それぞれ勤務していたものである(ちなみに、石原の妻千枝子(当二五年、以下「千枝子」という。)も同市役所に勤務しており、昭和四八年二月二五日に石原と結婚し、本件事故直前の同四九年七月二日、長男慎一を儲けている。)。

(2)  被告人並びに石原及び千枝子は、いずれも普通第一種運転免許を有し、被告人は日産サニー・エクセレント・クーペ一四〇〇GX(千葉五五の一三〇二号、以下「本件車両」という。)を、石原夫妻は本田シビツクを、それぞれ通勤の用に供していた。浅野は、四輪車の運転はできず、原付免許により、バイクで通勤していた。

(3)  昭和四九年一〇月九日午後五時過ぎ、同支所住民課を訪れた石原と、浅野及び被告人との間で、久し振りにどこかへ飲みに行こうとの相談が纒まり、石原は、退庁後に飲酒するときの習慣に従い、自車のキーと運転免許証を千枝子に預け(飲酒後は、タクシーで帰宅するか、千枝子の車で迎えに来てもらうこととしていた。)、被告人及び浅野も、それぞれ自車を同支所に残し、三名とも徒歩で約一五分の同市湊十字路に至り、近くの行きつけの「九十九」(つくも)を訪ねたが、折悪しく休業中のため、同交差点から約五〇メートル海岸寄りの同市湊五六番地の小料理店「鳥金」に赴き、午後六時ころから飲酒を始めた。当夜「鳥金」には他に客がなく、従業員の小柴はつ、松原富士子の両名が被告人ら三名の座敷で接待に当たつた。

(4)  午後八時か八時半ころになり、被告人は、同支所管理課税務係の三平稔純(当二六年、以下「三平」といいう。)を呼び寄せようと心当りに架電するうち、上総湊駅前の「美ふじ」で同市役所本庁総務部税務課評価係長島津久夫(当三〇年、以下「島津(久)」という。)と飲んでいた三平と連絡が取れ、午後九時ころ、三平、島津(久)の両名も「鳥金」に来て被告人ら三名と合流した。このころ、被告人、浅野及び女性二名はかなり酩酊しており、歌をうたつて騒いでいた。

(5)  当夜は午後一〇時前後ころ宴席が終つているが、この間清酒一級銚子二二本、ビール一五本が出されている。そのうち、ビール約一〇本は、前記女性二名が飲んだものである。そして、石原は、長男が生まれたばかりで前夜は殆ど眠つていないという理由で、島津(久)は、手術を受けた直後であるという理由で、あまり飲まなかつたので、被告人、浅野、三平の三名で大半飲んだこととなる。被告人は一度嘔吐するなど、相当に酔つていた。

(6)  席上、ストリツプを見に行く等の話題も出ていたが、帰り際になり、被告人が「これから館山の方へ行こうか」と提案し、女性二名にも同行を誘つた。女性らはこれを断り、行くのならタクシーで行くように勧め、松原富士子が午後九時五〇分ころ湊タクシー株式会社に電話した。間もなく、同社所属の小間茂運転のタクシーが「鳥金」に到着したが、乗車したのは被告人と石原の両名だけであり、市役所までと行先を告げた(発進前、被告人は、「車のキーを忘れた」と言つて座敷に戻り、小柴はつから膳の下に置き忘れていたキーを受け取つて、再びタクシーに乗り込んだ。)。

市役所で下車した両名は、被告人所有の本件車両に搭乗して湊十字路に向つた(両名のうち、いずれが運転していたものであるかは、本件における争点の核心を構成するものであるから、後に示す判断に譲ることとする。)。

一方浅野は、両名からやや遅れて「鳥金」を出、小雨の降る中を徒歩で市役所方面に向ううち、湊十字路の手前で本件車両に出逢い、誘われるままにその後部座席に乗り込んだ(ちなみに、被告人の49 11 13付(司)によれば、本件車両は、市役所から湊十字路に向い、同十字路で赤信号のため停止したのち、これを直進通過して「鳥金」前を通り過ぎ、湊海岸で転回したうえ再び「鳥金」前を経て、湊十字路手前で浅野を乗車させたと言うのである。)。

(7)  三平と島津(久)は、浅野よりさらに遅れて「鳥金」を出、三平の運転する車両で市役所に向つた。両名が市役所に到着したころには、同所に被告人や石原の姿はなく、島津(久)は、その後同市金谷一五五〇番地の自宅に帰つたが、三平は市役所構内に駐車した自車内で翌朝まで眠り込んでいた。

(8)  浅野を乗車させた後、本件車両は、湊十字路を右折し、国道一二七号線を館山方面に向つた。

三  本件事故発生直後の状況

(証拠略)を総合すれば、以下の各事実が認められる。

(1)  同日午後一〇時一〇分ころ、本件車両は、富津市金谷二一〇二番地先(正確には、同番地島津昭方の南側の電報電話局敷地の前)国道一二七号線(片側一車線、車道幅員約六・三〇メートル)館山市方面行車線上に、車首を富津市湊方面に向け、車体左側面(助手席側)を下にした恰好で横転していた。

(2)  はじめに被告人、次いで浅野の順で本件車両内から脱出した両名は、姿の見えない石原と島津(久)を捜し回つたが発見するに至らず(前示二の(7)で明らかなように、島津(久)は、被告人らとは別行動をとり、無事帰宅しているのであるが、当時、被告人は、島津(久)も本件車両に同乗していたものと思い込んでおり、浅野も被告人に言われて一緒に捜していた。)、前記島津昭方に同市役所の職員である島津よね子(以下「島津(よ)」という。)が住んでいることを思い出し、同女方を捜した。

(3)  島津(よ)は、眠つていて衝突音を聞いていないが、人声で目醒め、自宅の門に出て見ると路上に男が一人倒れており、隣家の者が「事故を起したらしい人が島津さん、島津さんと呼んでいたから、お宅の知つている人ではないですか」と言うので、すぐ家に入つて一一〇番に通報し、再び門に出たところで被告人、浅野の両名と出逢つた。被告人は、かなり興奮して「俺の頭にガラスが入つてしまつた」と何回も繰り返しており、浅野は、口も利けないような状態で、同家の上り框に突伏してしまつた。やがて三名が本件車両の傍に行くと、石原が車の下敷きになつており(頭部が少し車体の下になつていた。)。付近の人や通りがかりの車の人が、事故車を少し持ち上げて、石原を車の下から引き出した。

(4)  富津警察署の当夜の当直主任川島正城警部補は、同日午後一〇時一八分ころ、島津(よ)からの一一〇番通報に接し、他二名の警察官とともにパトロールカーで現場に急行し、約一五分後に臨場した。

そのころ消防吏員森喜久夫他二名搭乗の救急車が既に到着しており、石原を担架で車内に収容するところであつた。

川島警部補は、救急車の傍に佇立していた被告人に「運転者は誰ですか」と訊ねると、「私です」と答え、名前は「池田和生です」と申し立てたので、即時被告人の運転免許証を預つた。被告人は「酔つ払い運転で申訳ない」と言い、憔悴し切つた様子であつた。

被告人、浅野の両名も負傷していたため、石原とともに救急車に収容されたので、川島警部補は、救急車の行先の病院名を確認したうえ、本署に無線連絡して飲酒検知実施方を指示し、自らは同日午後一〇時四〇分ころから午後一一時五五分ころまでの間、現場に居合せた市川市菅野在住の会社員滝田徴(当二七年)の立会で、現場の実況見分及び写真撮影を実施した(証拠略)。

(5)  救急車は、石原らを富津市大堀一八一六番地アサナギ病院(院長麻薙章吾)に搬送したが、石原は、同日午後一一時〇五分、同病院において死亡が確認された。

川島警部補の前記指示に基づき、富津警察署幹部派出所勤務の酒巻良吉、市原和周両巡査はアサナギ病院に赴き、同日午後一一時二〇分ころ、被告人の飲酒検知を実施した。被告人は、運転をしていたのは自分であることを認め、ハンドル操作を誤つて側溝に落ちたと申し立てたが、相当興奮しており、壁に向つて泣きながら「人を死亡させてしまつた」と言つていた。身体のアルコール保有量は呼気一リツトルにつき〇・五五ミリグラムであり、歩行はふらつき、直立できず、壁に倚りかかつて泣いていた。

(6)  医師麻薙章吾作成の石原に対する死亡診断書によれば、同人の直接死因として「頸椎骨折、胸骨鎖骨骨折、全身打撲傷」と記載され、死亡時刻は午後一一時〇五分となつている。他方、同医師作成のカルテ写には「午後一一・〇五、交通事故にて一一・一〇PM死亡。光反応なし。処置、人工呼吸五分」と記載され、死亡時刻にややくいちがいがあるようにも見えるが、その趣旨とするところは、石原は午後一一時〇五分には既に死亡しており、一一時一〇分まで五分間人工呼吸をしたが蘇生するに至らなかつたと言うにあると思われる(なお、麻薙医師の(証)によれば、石原は即死に近い状態であつたと言うのであるから、午後一一時〇五分というのは、同人の死亡時刻というよりは、むしろ医師が同人の死亡を確認した時刻と解される。)。

浅野の傷病名は、「頭部外傷、全身打撲傷、腹部打撲傷」であり、被告人のそれは、「頭部外傷、後頭部切創」であつた。なお、被告人は、アサナギ病院で左後頭部の手術を受けた際、親指の第一関節位の大きさのガラス片が摘出されているのを見たと供述している(麻薙(証)では、ガラス片のことは記憶ないとなつている。)。

(7)  本件事故現場の状況は、概略次のとおりである(別紙一参照)。

現場は、北方富津市湊方面から南方館山市方面に通ずる国道一二七号線及びその周辺であり(以下、方位を以て表示する場合を除き、現場の位置関係は、湊方面から館山方面に向つて前後左右を表示する。)、幅員六・三〇メートルの舗装道路の外側には、幅員約〇・六〇メートルの側溝が設けられ、その外側は非舗装となつている。

国道の東側に位置する前記島津昭方の前には、道路左端から約二・六〇メートル東に入つた地点で国道と平行して南北に延びる高さ約一・六〇メートルのブロツク塀がある。右ブロツク塀の中央付近に島津方の門があるが、その南側の門柱から南方のブロツク塀の長さは、四・八五メートルである。この両端に接続して高さ約〇・九〇メートルのブロツク塀が約一・〇〇メートル南方に延び、その地点で直角に西方に折れて国道と垂直方向(東西)に約二・一〇メートル走つており(この東西方向に延びている部分を以下「屈曲部分」という。)、側溝に突き当る直前で終つている。屈曲部分の西端に接して、その南側には、屈曲部分と直角をなし、側溝と平行に、高さ約〇・二五メートルのブロツクが一列に並んでいる。このブロツクの列は、電報電話局の敷地(草地となつている。)に沿つて南方に延びているが、屈曲部分の西端から南方へ約三・五〇メートル進んだ地点で一旦とぎれている。

右屈曲部分の北方約二・八五メートル、道路左端から東方に約二・一五メートルの島津方ブロツク塀寄りの位置に、コンクリート製電柱(島戸倉一〇一号柱)が立つており、その根元には、北方の島津方の門や西方の側溝から電柱に向けて隆起するような形で土砂が盛り上げられている(右土盛りの高さは、電柱付近で、島津方ブロツク塀の高さの約二分の一、すなわち約〇・八〇メートル位に達している。)。

そして、島津方門前から、ブロツク塀の屈曲部分の中央にかけて、一条のタイヤ痕が長さ約九・三〇メートルに亘り印されている。右タイヤ痕は、島津方門前付近で国道から外れて左斜前方に向い、前記土盛りに乗り上げながら、国道の方へ戻ろうとするかのように右方に緩やかなカーブを描きつつ、ブロツク塀の屈曲部分の中央に向つている。その進路に当る屈曲部分は、その東端部分を長さ約〇・四〇メートル残して破壊され、ブロツク片が、南側の電報電話局敷地内に散乱している。

前記電柱の南西方約六・七〇メートルの国道(左側部分)上に車首が位置するような形で、本件車両が左側面を下にして横転している。車体は、国道に対しやや斜向きとなつており、フロントバンパーが道路左側端から約〇・九〇メートル道路中央寄りの位置にあるのに対し、リヤバンパーは同じく約三・〇〇メートル道路中央寄りの位置にあり、車体後部は一部センターラインにかかっている。車体上面(屋根側)は斜に湊方面に、車体下面は斜に館山市方面に向いており、車体下部中央付近(フロントバンパーから約二・〇〇メートル後方)、道路左端から約一・六〇メートル道路中央寄りの路面に血痕が見られるほか、車体下面から館山市方面寄りの道路左側部分上には、フロントガラスの破片が無数に散乱している。これに反し、車体上面(フロントガラスは、本来こちら側にある。)から湊方面寄りには、ガラス片の散乱は殆ど認められない。ちなみに、石原は、右血痕部分に頭部が位置し、首から下の身体を車体外の路上に伸ばすような姿勢で、車体の下敷になつていたものである。

(8)  本件車両に見られる損壊状況は、大要次のとおりである。

車体前部は、右前部前照燈付近を中心に大破しており、ラジエターグリル、ラジエター、フロントバンパーが破損している。ボンネツトは凹損し、上向きに屈曲している。フロントガラスは、運転席右側(車内から見て)の窓枠に若干付着しているほかは、すべて欠落しており、助手席側のワイパーが前方(外側)に屈曲している。

右前輪は、下部が内側に曲り、上部が外側に突き出している。左前輪のタイヤがパンクしているが、その余のタイヤに異常はない。

左側面には、一面に凹損が見られるが、左ドア付近のものが最も顕著で、最大長〇・七〇メートル、最大幅〇・二〇メートルに及ぶ。右側面、屋根及び背面に著明な損傷を認めない。

ハンドル(ステアリングホイール)は、正常位置に比し、上部が手前に傾き、下部が前方に押された形となつており、ハンドルステーが曲損しているだけでなく、ステアリングホイール自体も、上部がやや手前に屈曲している。なお、ハンドルポスト上部にあるクラクシヨンの蓋が脱落している。

車両備付の時計は、一〇時〇六分で停止している。

四  各鑑定結果と本件事故発生経過の大要

(1)  冒頭に触れたように、本件においては、事故発生当時本件車両を運転していたのが被告人であるか、それとも死亡した石原であるかが最大の争点である。原審においては、事故発生当時被告人又は石原が本件車両の運転席又は助手席に乗車していた可能性の有無に関し、自動車工学ないし力学的見地から、三回に亘り、鑑定が行なわれている(証拠略)

右各鑑定書の結論部分を摘記すると、次のとおりである。

まず、鈴鹿鑑定は、「事故当時、運転席に居たのは石原幹雄であつた可能性は極めて強い。池田和生は、事故当時、運転席、助手席ともに居た可能性は低い。」と言い、更に、「鑑定事項外ではあるが、池田和生は、後部左側座席に居たものと考えられ」ると付記している。

次ぎに、鈴木鑑定は、「(1)本件事故当時に、死亡者石原幹雄が助手席に乗車していた可能性がある。(2)本件事故時に、被告人池田和生が運転席に乗車していた可能性がある。」としている。

更に、樋口鑑定は、「(一)石原幹雄は助手席に乗車しており、事故によつて路上に投げ出された可能性が極めて大きく、運転席で運転していた可能性はほとんどないものと推定される。(二)池田和生は運転席で運転していた可能性が極めて大きく、助手席に乗車していた可能性はほとんど無いものと推定される。もちろん後部座席に乗車していた可能性はさらに少いものである。」と述べている。

すなわち、原判示第一、第二の各犯行当時、被告人が本件車両を運転していたものであるとする本件各公訴事実に即して言えば、鈴鹿鑑定は、その可能性は低いとする(むしろこれを否定するに近い。)のに対し、鈴木、樋口両鑑定は、その可能性はある、あるいは、極めて大きいとするものである。

(2)  各鑑定結果を比較検討するに先立ち、これらの鑑定結果と裁判所の事実認定との間の関係につき、若干考察しておくこととする。

裁判所が鑑定を命ずる事項は多種多様である。これらの中には、たとえば、ある鑑定資料中における覚せい剤の含有の有無といつた単純な事項で、鑑定結果を直ちに事実認定の資料となし得る場合もある。蓋し、この場合においては、覚せい剤を検出し同定するための科学的方法が一般的に確立しており、正しい鑑定方法がとられている限り、鑑定者が何人であるかによつてその結論を異にするおそれはなく、また、他の証拠によつて鑑定結果を覆えすことも困難と認められるからである。

しかし、本件鑑定事項の如き場合にあつては、自然科学上の可能性の有無を問うに過ぎず、その可能性の程度はさまざまの段階があり得る以上、鑑定結果を以て直ちに裁判上の証明があつたとすることができない場合があり得るし、一件記録中のどのような資料を鑑定の基礎とし、どのような自然法則とデータをどのように組み合わせて結論を導くかは、鑑定人の知識経験に委ねられていることからすれば、鑑定結果を直ちに事実認定の資料とはなし得ないのである。

従つて、<1>鑑定結果が、被告人が本件車両を運転していたという要証事実の存在の可能性を肯定したとしても、それだけでは要証事実の存在を肯定し得ないから、更に他の証拠を検討して事実関係を確定する必要がある。この場合、鑑定結果は、他の証拠と相まつて事実認定の資料となるか、他の証拠によつてなされた事実認定の合理性を裏付ける資料となる機能を果すこととなる。反対に、<2>鑑定結果が、要証事実の存在の可能性を完全に否定しているか、あるいはこれと相容れない他の事実(石原が運転席に居たとか、被告人が後部座席に居たという事実)の存在の可能性が、要証事実の存在の認定に対する合理的疑いとなり得る程度に高いものとしている場合には、右鑑定結果を採用する限り、他の証拠関係を検討するまでもなく、要証事実の認定は不可能となる。<3>鑑定結果が、要証事実の存在の可能性を完全には否定していないか、これと相容れない他の事実の存在の可能性が合理的疑いの域にまでは達していないとしている場合には、再び他の証拠関係との総合判断の必要を生ずることとなる。

以上のような関係から、鈴鹿鑑定についてはとくに綿密に吟味する必要があるので、同鑑定を中心に、これを他の二鑑定と対比しつつ検討することとする。

(3)  はじめに、本件事故の発端である本件車両の路外逸脱の点から考察する。

前示のような事故現場及び車両の状況に照らし、本件車両が国道一二七号線を館山市方面に向け進行中、前記島津昭方前で道路左側の路外へ逸脱し、ブロツク塀の屈曲部分に衝突した後、再び国道上に戻つて横転するという経過を辿つたものであることには、疑問の余地がない。

ところで、本件車両の路外逸脱という事態がどのようにして発生したものであるか、その原因については三鑑定とも殆んど触れるところがない(僅かに、樋口(鑑)において、左ハンドル九〇度の説明として、付随的かつ仮定的な形で、それが路外転落の原因である可能性について言及しているに止まる。)。運転者が被告人石原のいずれであるにせよ、その酩酊状況からすれば、酩酊運転に特有の蛇行状態となり、ハンドル操作を誤つて路外逸脱するに至つた可能性は決して低いとは言えない。と同時に、本件車両の左前輪のタイヤがパンクしている事実も、看過することができない。三鑑定とも、右パンクの原因については明確に述べていない。ということは、路外逸脱後の本件車両の運転経過中には右パンクの原因となるような衝撃の加わつた明確な形跡を見出し得なかつたことを意味する。してみれば、路面走行中何らかの原因で左前輪のタイヤがパンクし、そのため車体が左斜前方に逸走し、路外逸脱の事態を招いたという可能性もあながち否定できないところである。

このことは、本件車両の運転者が何人であるかの確定には直接関係のないことではあるが、本件過失の内容を考察するうえでは留意を要するところである(後記七)。

(4)  本件車両が路外に逸脱した後の運動の経過については、その細部についての判断の差異が鑑定結果を二分するほどの相違となつて顕われているにもかかわらず、これを巨視的に見た場合には、三鑑定ともその大綱において一致しているものと言える。

すなわち、本件車両は、路外に逸脱した後、左斜前方に進行し、<イ>左側車輪が前記電柱付近の土盛りに乗り上げて行く過程で、大きく右傾(ローリング)しながら前進し、進路前方のブロツク塀の屈曲部分に第一次衝突した。このとき鉄筋構造を持たないブロツク塀は大きな抵抗を示すことなく崩壊するが、屈曲部分の国道寄り(西端)の最下段は、その裏側(南側)に側溝に沿つて南北に延びる長さ約三・五〇メートルの縦深部を有し、これによつて支持されているため大きな抵抗力を示す。本件車両は、この部分に、右前照燈下部のフエンダー付近を激突させたものと見られ、その部位に最大の衝撃力を受けた。ところで、<ロ>右部位は車体重心より低い位置にあるため、ここに衝撃が加わることにより、車体後部が上方に跳ね上り、車体が逆立ちするような運動(ピツチング)が起るとともに、<ハ>右部位が車体中心より右方に偏心しているため、車体後尾を左側に振る(車体の真上から見れば、時計回りの右回転となる)ような運動(ヨーイング又はスピン)が同時に発生する。以上のように、本件車両は、路外に逸脱した後、<イ>のローリング運動を起こし、引き続き<ロ>のビツチングと<ハ>のヨーイングの複合した運動によつて時計回りに回転しつつ空間を跳躍し、国道上に復帰して路面と第二次衝突し、最終位置に至つて前示のような横転姿勢で静止するに至つたものである。

三鑑定は、右の限度においては一致した推論を下しており、実際に生起した事実も、右のとおりであつたものと認めるのが相当である。

右のような事故態様の認識を共通の前提としながら、前記(1)の如く、鈴鹿鑑定と、鈴木、樋口両鑑定とでは、全く異る結論に到達している。前記(2)で考察したように、要証事実の認定との関連において影響の大きいのは鈴鹿鑑定と考えられるから、同鑑定につき、項を改めて検討することとする。

五  鈴鹿鑑定の検討

(1)  鈴鹿鑑定は、「(一)本件車両の助手席に乗員は居なかつた、(二)運転席に居たのは石原である、(三)被告人は後部座席に居た」という可能性が強いということを、その骨子としている。

その根拠とするところは、大要次のとおりである。

すなわち、(一)「助手席に乗員が居なかつた」とする点は、助手席に乗員が居たとすれば、ブロツク塀との第一次衝突によつて車体が急激な減速を受けた際、慣性の法則により、右乗員は、フロントガラスを突き破つて左斜前方に飛び出し、フロントガラスの破片とともに、電報電話局敷地内に落下している筈であるのに、同敷地内には、乗員も、フロントガラスの破片も落下していないこと、(二)「運転席に居たのは石原である」とする点は、<イ>ハンドルの曲損状況及びこれを生じさせた衝撃力の大きさからして、運転席乗員は胸部に損傷を受けている筈であるが、本件車両の乗員中胸部に損傷のあるのは石原のみであること、<ロ>本件車両の回転、跳躍運動の過程で、運転席乗員が助手席の方に移動した後、石原が倒れていた地点の路上に転倒する可能性が考えられること、(三)「被告人は後部座席に居た」とする点は、<イ>右(一)、(二)からの当然の帰結であるほか、<ロ>被告人の創傷が、後部座席に居たことの明らかな浅野の創傷と類似していることを、それぞれの理由とするものである。

右各点につき、順次検討する。

(2)  まず、「(一)本件車両の助手席に乗員は居なかつた」とする点である。この点は、石原が助手席に乗車していた可能性を肯認する鈴木・樋口両鑑定と際立つた対照を示している。

a  鈴鹿鑑定は、助手席に乗員が居たとすれば、第一次衝突によつてフロントガラスを突き破り、その破片とともに車外に投げ出されることとなるが、その放出方向は、それまで走つて来た方向、すなわち(鑑)付図1のVRの方向(電報電話局敷地方向)であると言う。

b  しかし、本件車両は第一次衝突によつて衝突地点に静止した訳ではなく、前示のようにピツチングとヨーイングの複合した回転力を与えられているのである。そして、助手席乗員は、シートベルト等によつて車体に固定されていないとしても、全く支えのない状態で車内に浮遊していたものでもないから、ある程度車体とともに回転しつつ、慣性の法則による車体との相対運動により、フロント・ウインドウを通り抜けて車外に放出されるものと考えられる。従つて、その地上での放出方向は、車体内部における人体の相対移動のベクトルと、放出時点における車体そのものの地上に対する向きによつて決せられる。車体そのものは、時計回りに約二一〇度回転し、ブロツク塀の屈曲部分から右斜前方の国道まで跳躍しているのであるが、第一次衝突から助手席乗員の車外放出までの時間は極く短いものと考えられるから、この間における車体そのものの回転は、殆んど無視してよいものと考えられ、そうだとすれば、助手席乗員の地上における放出方向は、車体内部における人体移動のベクトルと略々同視してよいこととなる(樋口鑑定では、両者を同視している。)。また、フロントガラスは、破壊されるまでは車体の一部を構成しているから車体と同一の運動を行ない、破片となつた後は車体の動きから解放され、慣性に従つて飛散したものと考えられる。その慣性の大きさと方向は、破片となつた瞬間における車体の速度と方向によることとなる。

c  鈴鹿鑑定も、図9において、車両内部における人体の相対移動のベクトルを合成している。

すなわち、車両の前進速度毎時五〇キロメートルは、第一次衝突によつて車体に負荷された力積により毎時一四キロメートルにまで減速されるが、人体は毎時五〇キロメートルのまま前進するから、車体に対し毎時三六キロメートルの相対速度(VR)で前方に移動するとともに、前記回転運動により、車体は、車両重心点(運転席と助手席との中間やや後方)を中心に、時計回りに毎秒四・一七ラジアンの角速度(これをω(オメガ)とする。)で回転するのに対し、人体は、元の位置に止まろうとする慣性により、rω(rは、車両重心点から人体までの距離)の相対速度で車体内部を移動するとして、VRとrωとの合成ベクトルVCを作図している。

ところで、鈴鹿鑑定では、車体の回転の中心を車両重心点としている。その結果、rωの方向は、運転者の場合は左斜前方、助手席乗員の場合は左斜後方となり、従つて、合成ベクトルVCは、いずれの場合も左斜前方(電報電話局敷地方向)に向うこととなる。

d  しかし、車体の回転の中心が車両重心点であるという前提は容認し難いところである。強力な偏心力積が車体右前部に加えられ、直ちに取り除かれたような場合には、車両重心点を中心に、車体が独楽のように回転することも充分考えられる。しかしながら、本件の場合は、前記のように、ブロツク塀屈曲部分の右下角付近に右前照燈下部のフエンダー付近を激突させ、右前輪が喰い込んでねじられるような形で回転運動が起こつているのであるから、回転の中心は車体右前部であり、ここを中心に大きく車体後尾を振るような状態を想定しなければならない。この場合、回転に対抗する人体の慣性の方向は車体右斜後方となり、VRとの合成ベクトルVCは右斜前方(国道方向)となる(鈴木、樋口両鑑定とも、回転の中心が車体右前部であり、人体の放出方向を右斜前方であるとしている。ことに、樋口鑑定は、その方向(角度)、速度を詳細に算出しており、助手席乗員の場合は、右前方約四五度の方向に毎時約四三キロメートルの相対速度で車内を移動するとしている。)。

e  そうだとすれば、第一次衝突による助手席乗員の放出方向は、車体右前方(国道方向)であつて、同左前方(電報電話局敷地方向)ではないものと考えるのが相当であるから、電報電話局敷地内に人体が落下していないことを以て「本件車両の助手席に乗員は居なかつた」ことの証左となすに由ないものと言わなければならない。

f  次ぎに、鈴鹿鑑定が助手席乗員の居なかつたことのもう一つの論拠としている電報電話局敷地内にフロントガラスの破片が発見されていない点について検討する(発見されていないということと存在しないということは直ちに同義ではない。証人鈴木勇(公)では、国道上に飛散したガラス破片の量が少いので、残余は側溝の中か電報電話局敷地の草原に落下したものと推測したと述べている)。

フロントガラス破損の原因についての鑑定人の意見は区々である。鈴木鑑定は、第一次衝突によりボンネツトが後退し、ワイパーステーに当たり、これでフロントガラスを破損したとし、樋口鑑定は、右のようなことは自動車の構造上起り得ないと否定する。樋口鑑定人は、(鑑)の中では、乗員の頭部が激突したことがフロントガラス破損の原因と解しているかの如くであるが、(証)ではブロツク塀屈曲部分との衝突による衝撃を原因とする方に傾いている。鈴鹿鑑定では、助手席乗員が居たとすれば、第一次衝突時にその頭部を激突させて破損することとなるが、ガラス破片の飛散方向からそのような事態は起り得ないとしつつ、然らばその破損がどの時点でどのような原因で生じたかについては、明言するところがない((公)では、遙かに衝撃力の大きい第一次衝突時に脱落せず、第二次衝突時に脱落破損したという現象は不思議に思うと述べている。)。

原因がいずれであるにせよ、破損の時期については、これを第一次衝突時と考える鈴木・樋口両鑑定と第一次衝突時であり得ないとする鈴鹿鑑定の対立が見られる。鈴鹿鑑定の論拠とするのは、乗員の場合と同様、慣性による飛散方向である。

しかし、慣性による飛散方向が、鈴鹿鑑定の言うように単純なVR方向でないことについては、さきに説示したとおりである(前記b参照)。フロントガラスの場合は、車体から分離脱落する以前は、車体の一部を構成するものとして車体と同一の減速を受ける。従つて、放出時点での前進速度は減速された車体速度と同一と考えられるが、車体の回転運動に対する慣性の方向は人体の場合と大差ないものと解される。そうだとすれば、合成ベクトルは右斜前方ということになり、左斜前方とする鈴鹿鑑定の推論は当らない。

以上のとおり、フロントガラスが第一次衝突時に破損したものと考えても、その破片が国道上に散乱している状況とは、何ら矛盾しない。

のみならず、フロントガラスが、車体が国道上に第二次衝突し、路面を転動して横転するに至る過程で破損、脱落したと考えると(そう考えること自体、第一次衝突と第二次衝突とで、その衝撃力に大差のあることに照らし、不自然さを免れない。)、その破片の散乱状況と符合しないこととなるのである。すなわち、前示のとおり(前記三の(7)参照)、本件車両は左側面を下にし、フロントウインドウのある車体上面を湊方面に向けて横転しているところ、右のような過程でフロントガラスの破損、脱落を生じたとすれば、その破片は湊方面寄りに散乱していなければならないにもかかわらず、その方面には殆んど認められず、車体下面の向いている館山市方面寄りに集中しているのである。

このように観て来れば、フロントガラスは第一次衝突の時点で破損したものと認めるのが相当であり、フロントガラスが破損していないことを理由に助手席に乗員が居なかつたとする推論は、その前提を失うこととなる。

g  かくして、乗員及びフロントガラスの放出方向を根拠に「本件車両の助手席に乗員は居なかつた」とする鈴鹿鑑定の第一命題は否定される。

ここで付言しておくと、右命題が否定されたからと言つて、直ちに積極的に「本件車両の助手席に乗員が居た」という命題が肯定されることにはならないのであるが、本件車両が営業車や公用車(この場合は乗員が後部座席を占めるのが通例である)ではなくて、親しい同僚仲間が、それも飲酒のうえ寛いだ気分で相乗りしていたものであること、本件車両はツードアのクーペ型であつて、車体構造上その後部座席に乗車するのは若干窮屈な感じを免れないこと等を考え併せると、三人乗車の場合、後部座席に二名乗車するよりは、一名が助手席に乗車していた可能性はかなり高いものと言うことができる。

(3)  第二に、「(二)運転席に居たのは石原である」との推論について検討する。この点は、直接本件争点の核心に触れるものである。本件車両の乗員は、被告人、石原、浅野の三名のみであり、浅野は四輪車の運転ができないのであるから、本件車両を運転していたのは被告人か石原のいずれかでなければならず、両者は二者択一の関係にある。

以下、鈴鹿鑑定の論拠とするところにつき逐一検討を試みる。

a  前記(1)で触れたとおり、この点の推論の根拠は、<イ>ハンドルの曲損を生じた衝撃力と石原の胸部損傷に関連性が認められること、<ロ>石原が運転席に居たものとして、本件車両の運動に伴い、石原が最終位置に転倒するまでの運動を力学的に説明できること、の二点にある。

右の<イ>は新たな論点であるが、右の<ロ>の点は、前記(2)の考察と関連するので、便宜後者を先に検討することととする。

b  第一次衝突後の本件車両と運転席乗員の運動につき、鈴鹿(鑑)は付図2によつて次のように説明している。以下、括弧書きで注釈を加えつつ、原文のまま引用することとする。すなわち、「図中cでブロツク塀に衝突し、運動エネルギーの一部が位置エネルギーに変換されて浮き上がり、跳躍する。跳躍しながら既述の如く回転しA(右側面を下にした横向きとなり、路面と四五度の角度で車体右前部を路面Pに接地した姿勢)に至つて路面Pと第二衝突するが、その間、車両と乗員は一つの慣性系の中にあり、僅かな時間ではあるが、宇宙船内における無重力状態と同じになり、乗員は車室内で浮遊状態になる。その間に、図中印の如く車両が回転すれば、それまではハンドルにかぶさるようにしていた運転者は、助手席側に相対移動し、図中、姿勢Aの車内にある人体aの如き位置(助手席)に移動してくることが考えられる。車両は路面Pとの衝突によつて再び急な減速を受けるが浮遊状態にある乗員は、さしたる抵抗を受けることなく、そのまま飛行を続け、bで路面に衝突、小さいバウンドの後cに停止。A、B(Aの姿勢から後尾を進路前方に向けて時計回りに振り、路面Qに車体左前部のみを接地させて逆立ちとなつた姿勢)、S(さらに後尾を前方に振り、車体左側面全部を路面に接地させて完全に横倒しとなつた姿勢)と転動してきた車両に身体の一部を下敷きにされた。」というのであり、「以上は仮説であるが、力学的に説明可能であり、車両の動きに関しては、物証の裏付けを持つ。」と言う。

c  そこで、右のような仮説が力学的に成り立つか、順を追つて検討する。

はじめに右仮説は、右の運動過程を通じ、助手席に乗員の居ないことを前提としている。助手席に乗員が居るとすれば、これに妨げられて運転席乗員の右のような運動は不可能となる。ところが、前記(2)のように、右前提は否定されているのである。助手席乗員が居た場合にもなお仮説のような運転席乗員の運動が可能であるためには、第一次衝突の時点において、助手席乗員が車外に飛び出していなければならず、この場合には、助手席乗員、運転席乗員とも車外で発見される筈であるが、実際路上に転倒していたのは、石原のみである。

次ぎに、第一次衝突によつて運転席乗員が車内で起す相対移動が乗員と車体との衝突によつて終止し、相対的に静止状態となつた後の運動過程につき検討して見ることとする。

鈴鹿鑑定人は、この場合、車体と運転席乗員は「一つの慣性系の中にあり、僅かな時間ではあるが、宇宙船内における無重力状態と同じになり、乗員は車室内で浮遊状態となる」と言う。ここで宇宙船というのは、等加速度(980cm/sec2)で地球中心に向つて自由落下を続ける周回軌道上の人工衛星を指すものと解すべきところ、これと、第一次衝突による急激な減速を受け、大気中で回転、跳躍している本件車両とでは前提条件を異にし、直ちに同視し得るか疑問の余地なしとしないが、瞬間的に無重力状態を生ずるという仮定をするだけであれば、とくに問題とするに当らない。

問題は、鈴鹿鑑定人が、運転席乗員が浮遊状態のまま、車両の回転に伴い、助手席方向に移動した後、車体が路面との接触によつて急激に減速しても、そのまま飛行を続け、bで路上に転落するに至る(飛行する方向や、bでどのような力が作用してどのような経路で転落するかの説明はない。)としている点である。鈴鹿鑑定人は、ここでも、車両の回転の中心が車両重心点にあると考えているため、車体が重心点を中心に時計回りに回転することにより、運転席乗員が助手席方向に相対移動するという結論を導いているのであるが、前述のとおり、車両の回転の中心は車両右前部と考えるべきであるから、運転席乗員には、逆に、運転席右側ドアに押し付けられるような慣性が働らくのである。そして、車体の一部が接地して急激な減速を受ければ、乗員には、従前の速度で前方に進行しようとする慣性も作用することとなり、右二つの慣性はベクトルの方向が逆であるから互いに相殺されることとなる。仮りに、回転に抗する慣性よりも、減速に抗する慣性の方が大であるとすれば、乗員の身体は車両内部を前方に進むこととなる。この場合、車両そのものは横向きに回転しているのであるから、ここで「前方」というのは、車両内部で言えば助手席の方向であつて、鈴鹿鑑定人が想定していると思われるフロント・ウインドウやボンネツトの方向ではない。従つて、運転席乗員が車体外部にまで「飛行を続け」、路面に転落するというような事態は起り得ない(仮りに運転席乗員が車体外部に飛び出すとすれば、助手席左側ドアの窓を通り抜けなければならないが、その窓ガラスは閉じられており、もとよりそのような形跡はない。)。そして、車両が車体左側面を下にして路上に静止すれば、すべての慣性は失われ、地球の重力により運転席乗員は下方、すなわち助手席内に落下する(これが、被告人が当初述べていた事故直後における被告人の位置である。)。

このように観て来ると、石原が運転席に居たものとすれば、事故直後に同人の身体は助手席内になければならず、路上に飛び出して車体の下敷となるような位置まで移動していた運動過程を力学的に説明することは不可能と言わざるを得ない。すなわち、鈴鹿鑑定の前記aの<ロ>の論拠は失われる。

d  次に、前記aの<イ>の論拠につき検討する。

本件車両のハンドルの曲損状況については前記三の(8)に、乗員三名の受傷状況については前記三の(6)に、それぞれ判示したとおりである。

鈴鹿鑑定人によれば、第一次衝突による減速度は二〇G以上と考えられるから、運転者の頭部、胸部及び腹部の一部の重量を約二五キログラムとすれば、ハンドルには約五〇〇キログラムの圧迫荷重がかかることとなり、これによつてハンドルの曲損が説明できるとともに、これに対応して運転者の胸部への重度の傷害が考えられるところ、石原には胸部への重度傷害(胸骨、鎖骨骨折)があるが、被告人にはそれがないと言うのである(なお、同鑑定人によれば、ハンドル(ステアリングホイール)の下部及び左方がとくに屈曲しているが、これは運転者が腹部又は胸部でハンドルの下部を、胸部中央部又は上部でハンドル左方を圧迫したためと考えられるとしているが、事故後に撮影した写真から第一次衝突時におけるハンドルの上下左右を判断することは無意味であるうえ、運転者が車内を左前方に移動したとする同鑑定人の推論が誤りで、実際は右前方に移動したと考えられることについては前述のとおりであるから(前記(2)のc、d)、この点の推論は当らない。)。

これに対し、鈴木鑑定人は、最近の車はハンドルが曲り易く作つてあり(ハンドルポストもエンジンルーム内に一五センチメートルないし二〇センチメートル縮むように作られている。)、ホイールを六センチメートル曲げるのに二〇〇キログラムの荷重で足りる(なお、肋骨の折れる面圧は一平方センチメートル当り二・五キログラムであるから、ハンドルホイールとの接触面積を一五〇平方センチメートルと仮定すれば、三七五キログラム以上の力が加わらなければ骨折を生じないと言う。)から、本件程度のハンドルホイールの曲損では、肋骨(実際は胸骨である。)骨折に至らなかつたのではないかとしている。

さらに、樋口鑑定人は、運転者はベクトルの合成により右前方約三五度の方向に時速約五三キロメートルで相対移動するが、この場合の衝撃の加速度は一〇G位で、体重六〇キログラムの半分として約三〇〇キログラムの荷重がハンドルにかかり、両腕では支え切れずに頭部をフロントガラス上部、右フロントピラー内側に激突させる、ハンドルは衝撃吸収設計になつているので、両腕と下腹部でハンドルを大半押え得たものと思われ、胸部がハンドルポストに接触しているとしても、胸部に受傷を見ないことは不自然ではない、と言う。

本件ハンドルの曲損状況及びハンドルポスト上部のクラクシヨンの蓋の脱落状況からすれば、第一次衝突時に、運転席乗員がその胸部をステアリングホイールやハンドルポスト上部に接触させた可能性は窺い得るが、右接触により、胸部に骨折を生ずるほどの衝撃を受けたものであるかは、にわかに断定し難い。

鈴木及び樋口鑑定人の指摘するように、運転席乗員はステアリングホイールを握持しているので、衝突を意識して腕に力を入れれば一層のこと、衝突時の衝撃を腕の力で緩和し得るし、車体構造上からも衝撃の緩和が図られているのであるから、計算上の衝撃力がそのまま胸部に全部伝えられることはないものと考えられる(ちなみに、弁護人提出にかかる日産自動車株式会社のパンフレツトによれば、本件車両であるサニー・エクセレント・クーペ一四〇〇GXには、衝撃吸収式ステリングが標準装備されていることが認められる。)。鈴鹿鑑定人の推論には、衝撃吸収機構についての考察がなされていない憾みがある。

それにしても、乗員三名の受傷状況に関する(診)、カルテ写の記載は甚だ簡略であり、麻薙章吾の(証)によつても、その詳細を明らかにすることはできない。たとえば、石原の胸骨骨折についても、胸骨のどの部位にどのように骨折が認められたのか定かでないし、鎖骨骨折に至つては、左右いずれの鎖骨であるかも判然しない。また、現場の状況から、石原の頭部付近の路上に血痕が発見されているのに、(診)には出血を伴うような創傷の記載がなく、カルテ写に下顎部に横線を引いて「傷」と記載した人体図が示されているのみである(右カルテ写の記載にもかかわらず、麻薙章吾の(証)には、石原の頭部に外傷はなく、顔はきれいだつたとある。)。

このような状況からすれば、乗員三名の受傷部位からその乗車位置を割り出すことは到底無理であつて、他の関係証拠から乗車位置が推認された場合、受傷部位から見てそのような乗車位置が不合理であるか否かを験算するのに利用し得るに止まるものと言うべきである。そして、運転席に被告人が居たものとしても、その胸部に骨折等を生じない場合も考えられ、また、石原の受傷については、同人が助手席に居たものとしても、車体内部及び路面との激突によつて、充分説明可能なのである。鈴鹿鑑定人の推論は、石原が運転席に居たとしてもその受傷を説明し得るという限度では相当であるが、さらに進んで運転席に居たのが石原であつて被告人ではないとする根拠とはなし難い。

e  右に見たように、前記aの<イ><ロ>ともに、「(二)運転席に居たのは石原である」とする鈴鹿鑑定の第二命題を論証するに由ないものである。却つて、右命題を肯認するときは、被告人の乗車位置を助手席と考えざるを得ず(後部座席に居たのが浅野一名のみであつた事実は、証拠上殆ど動かし難い。)、そうだとすれば、第一次衝突によつて被告人が車外に飛び出していないことの力学的説明も不可能であるし、逆に、第一次衝突後も被告人が助手席内に留まつていたとすれば、石原が車外に転落していることの力学的説明(前記b、cで検討した鈴鹿仮説)も成立しないという不合理を生ずることとなる。

(4)  第三に、「(三)被告人は後部座席に居た」とする鈴鹿鑑定の第三命題について検討すると、これは、「(一)本件車両の助手席に乗員は居なかつた」、「(二)運転席に居たのは石原である」とする第一、第二命題からの帰結であり、両者が否定される以上、独立の意義を有しない。被告人の創傷と浅野の創傷とが類似しているとの点は、論拠とするには極めて薄弱であり(樋口(鑑)は、全身打撲傷、腹部打撲傷は浅野にあつて被告人になく、後頭部切創は被告人にあつて浅野にないことから、両者の創傷は類似しているとは言えないと言う。)、後部座席に二名居たとすれば(浅野が前部座席に居た可能性を指摘する鑑定人はない。)、浅野の供述する同人の乗車状況(後部座席に横になつて眠つていた)とも異るし、事故直後における浅野と被告人の脱出状況(後部座席内で身体が上下に重なつたことによる混乱が全く見られない)とも符合しない従つて、第三命題も否定せざるを得ない。

(5)  かくして、鈴鹿鑑定の提示する三つの命題はすべて否定され、その結論(前記四の(1))は、たやすく受入れ難い。

これに対し、鈴木、樋口鑑定は、その理由付けの細部には、相互に異同があり、また、裁判所としても首肯しかねる部分がないではないが、その結論は概ね一致し、その推論の経過も大綱においてこれを支持し得る。ことに、樋口鑑定における事故発生経過の分析は詳細であつて、その推論過程も妥当と認められる。所論は、樋口鑑定が関係者の供述を多用している点を批難するが、樋口鑑定は、その紛わしい記載方法にもかかわらず、これを仔細に検討すれば、推論の根拠としては客観的証拠に依拠しており、その推論に照らして関係者の供述を吟味しているに過ぎないのであり、関係者の供述から推論を導いているものでないことが明らかである。ただ、同鑑定は、与えられた資料からでは断定困難な細部についてまで種々推論を行なつているが、それは、考え得る説明の一例を示しているものと見るべきである。たとえば、被告人の後頭部切創の成因についての説明は極めて具体的であるが、他の可能性も考え得ないではないから、右説明は可能性の一つを提示したものと言うことができる。同様に、同鑑定人が石原の鎖骨骨折の原因として、ダツシユボード又はグローブボツクスとの衝突及び路面との衝突の二つを掲げているのも、胸骨骨折及び頸椎骨折の原因が一義的に考えられるのに対し、鎖骨骨折については、可能な原因が二通り考えられることを示しているに過ぎず、鑑定内容が前後矛盾しているものとは解されない。これらの諸点は、樋口鑑定の推論過程及び結論の妥当性を損なうものではない。

六  関係者の供述の検討

(1)  次に、関係者の供述につき検討する。

さきに判示した本件事故発生の経緯(前記二)及び本件事故発生直後の状況(前記三)については、多数の関係者の供述が得られているが、本件車両が市役所前を発進してから事故現場に至る間の運行状況については、関係者は乗員三名以外になく、しかも、そのうち石原は即死に近い状態で死亡している。従つて、関係者の供述としては、被告人及び浅野の各供述のみである。

両名の供述の特色は、いずれも当時酩酊状態にあつて、当時の状況を完全に追想することが不可能であること、本件については昭和五〇年一二月一七日、一旦不起訴裁定がなされた後、同五二年四月二八日検察審査会において不起訴不当の議決があり、再捜査のうえ公訴が提起されるに至つた関係上、事故発生(昭和四九年一〇月九日)から公訴提起(同五二年一〇月四日)まで長期間が経過し、各供述間の間隔が長いことである。これらの事情から、関係者両名の供述によつても、事故発生経過の詳細を明らかにすることはできないので、本件車両の運転者が被告人又は石原のいずれであるかという点に絞つて、各供述を吟味せざるを得ない。

(2)  原審で取り調べた浅野の供述は、<イ>49 10 28付(司)、<ロ>49 11 6付(司)、<ハ>52 5 7付(検)(刑事訴訟法三二一条一項二号書面)及び<ニ>第四回(公)(53 6 20)である(なお、50 7 14付(検)は不同意、撤回とされている。)。

右<イ>において、浅野は、「鳥金」を最後に出たときは、先に出た四人の姿はなく、市役所方向に歩いていると、どちらから来たか分からないでとにかく車に乗つた、この車を誰が運転していたか、私自身が助手席に乗つたか後部座席に乗つたか覚えていない、車に乗るとすぐ眠つてしまい、どのようにして事故現場に行つたか覚えていないが、気が付いたのは頭にガチンと来て車が跳ねたような気がしたときである、どのようにして車から出たか覚えていないが、周囲を見渡すと被告人が血で真赤になりウロウロしていたと述べており、<ロ>では、湊十字路の手前で「乗らないか」と声を掛けられ、後部座席に乗つた、前部座席には確かに被告人と石原が居たが、運転者がどちらか全く記憶がないと述べている。

このように、浅野は、当初は、自己の乗車位置が助手席か後部座席かも覚えていないと述べていたのであるが、<ロ>ではそれが後部座席であることを明言し、前部座席には被告人と石原が居たことは確かであるとしており、その後の供述においても、この点は終始変つていない。前部座席に被告人と石原が居たことが分かつていながら、そのいずれが運転していたか全く記憶がないというのは、いささか不自然であるが、浅野としては、両名とも同僚だつたものであるから、不確かな記憶に基いていずれか一方の不利益となるような供述をすることを憚る気持が働いているものと考えられる。この点で、浅野が、運転者が被告人であることは間違いないと思う旨の意見を述べたことはあるが(<ハ>)、石原が運転していた趣旨の供述は、たとえ推測の形にせよ、一度もしていないことは、注目に値する。

<ハ>は、<ロ>から約一年半後の供述であるが、供述内容は一層詳しくなつている。すなわち、市役所に向い道路右側を歩いていると(この点は、読聞けの際に右側か左側か判然しないと訂正している。)、前方から車が来て「乗れ」と言われ、助手席を前に引いてもらつて後部座席に乗り、右側に頭を向けて横になつた、後部座席は自分だけで、前の二人が脱いだ背広が置いてあつたように思う、と言うのである(前記二の(6)に引用した被告人の49 11 13付(司)のような状況であるとすれば、本件車両は、湊海岸で転回した後湊十字路手前で道路左側を歩いていた浅野に後方から接近し、乗車させたことが推認され、浅野の右供述とは逆になる。)。道路のどちら側を歩いていたかとか、車が前方から来たかというような細かな点について、一年半前に覚えていなかつた記憶が甦えつたか否かは疑わしいが、先になされている被告人の供述と強いて一致させようとせずに、むしろ逆の供述をしている点では、浅野の供述の自主性が窺われる。

そして、浅野は、事故現場及び救急車で運ばれた病院で被告人が警察官に対し私が運転していましたと申し立てていたこと、浅野自身も病院の診察室で警察官に事情を聞かれ、知つていることを述べたがどんなことを話したか記憶していない、警察官の報告書に「館山のストリツプでも見に行こうとして、今廊下に居る池田さんが車を運転しスピードを出し過ぎたせいかハンドルを切りそこね、路外に出てしまつた」と記録されているとすれば、当時そのように述べたと思うことを供述したうえ、酔つて寝込んでいたので判然した記憶はないが、<1>診察室で事情を聞かれた際に、記憶が鮮明な時点で池田が運転していたと述べていること、<2>池田も、現場や病院で自分が運転したと述べていること、<3>池田が責任を取つて市役所を退職していること、<4>免許取消処分を甘受していること、<5>運転席乗員より助手席乗員の方が車外に飛び出して重傷を負う危険性が高いことなどの理由を挙げて、池田が運転していたことは間違いないと思う旨供述している。これは、浅野の意見に過ぎず、同人の記憶に基づく事実の報告ではない。<1>ないし<5>の論拠は、いささか捜査官的発想によるもので、浅野自身が考え付いたというより、捜査官にこれらの点を指摘されて、右のような意見を形成するに至つたものとも考えられ、過当に高く評価するのは危険である。それにしても、浅野は、この調書で助手席側から乗車した旨を繰返し述べているので、座席を引いて乗せてくれた人物が誰であつたか全く記憶していないというのは不自然であり、それが被告人であり、従つて運転席に居たのが石原であるとの記憶が幽かにでも残つていれば、捜査官の指摘があつても、右のような意見を述べる筈がない。浅野としては、被告人が運転していたと断言できる記憶もないが、石原が運転していたということは、それ以上に、想像も及ばない事態であつたものと思われる。そのことは、浅野が、三週間の入院生活中、退院間際に被告人に会つた際、運転していたのは誰かと訊かれ、それまで被告人が運転していたものとばかり思つていたので、今更何を言うのかと内心驚いたと述べている点からも窺知できる。浅野は、被告人にそのように訊かれたことから、記憶の判然しないことは述べない方がよいと思つたと言うのであり、その方針はその後一貫して守られている。

<ニ>は<ハ>からさらに一年余を経た公判廷供述であつて、記憶の薄れた点があるほか、とくに新しい供述はしていない。ここでは、後部座席に居たのは浅野一人であり、被告人と石原は前部座席に居たことを繰り返し確認している点が重要である。

以上のように、浅野は、被告人と石原のどちらが本件車両を運転していたかについては(<ハ>の意見は別として)一切述べていない。しかし、両名が前部座席に居たことは確認しているので、助手席に乗員が居なかつたことを前提とする一連の仮説を排除するうえでは有用である。前部座席に二名の乗員があり、一名は車外に放出されて路上に転倒し、他方は横転した車体内部にあつたのであるから、そのことを前提に考察を進めることを可能にするという意味で、浅野の供述は重要である。

(3)  次に、被告人の供述につき検討する。

前示のように、被告人は、本件事故発生直後に、運転していたのは自分であると申し立て、「人を死亡させてしまつた」と泣いていたのである(前記三の(4)、(5))。犯行直後におけるこのような言動は、自白と言うよりは、むしろ非供述証拠に近いものとすら言える。

そして、被告人は、警察の取調段階では、自分が運転していたことを認めていたのである。

まず、<イ>49 10 10付(司)は、本件事故発生の翌日、アサナギ病院において録取されたものであるが、被告人は、右調書において、「鳥金」を出るのに靴を履いた記憶はあるが、その後どうしたのか全く分からず、気付いたときは事故を起こしていた、どのように市役所に戻り、車を出したか覚えていないが、事故現場の少し手前のカーブか橋付近を走つているとき、ハンドルを握つていた記憶があり、後部座席から質問するように話しかけられ、相槌を打つように後方を振り返つてから前を見ると目の前に何か白い物が映つた瞬間ドカンという音と同時にシヨツクを受け、身体が右下に傾く状態に車が横になり、気付いたときは道路上に車が横転しており、私は横転した車の前部座席の道路に接したドアに寄りかかるように倒れていた、フロントガラスが割れていたのでそこから外へ出た、旨供述しており、<ロ>49 11 13付(司)では、「鳥金」から石原と二人でタクシーに乗り、市役所に行つたが、その際エンジンキーを忘れたのを思い出して「鳥金」に取りに戻つたこと、タクシーに乗る前に「鳥金」で一度吐いていること、市役所で本件車両の助手席に石原を乗せ、自分が運転して出発したこと、湊十字路で赤信号が青に変るのを待ち、湊海岸まで進行して車を転回させ、湊十字路の手前で歩いていた浅野を後部座席に乗せ、湊十字路を右折して国道一二七号線を館山市方面に向つたこと、湊十字路から一五分位して左カーブ、隧道を過ぎた三〇〇メートルの直線コースの橋付近で後部座席から何か話しかけられたこと(後の経過は<イ>に同じ。)について供述し、<ハ>49 11 28付(司)では、当日の引当りの結果に基づき、記憶にある建物等は、富津警察署、天神山隧道、城山隧道、直線道路の富貴橋であり、この橋の所で一台の車に追い越された記憶がある、事故現場は自分が考えていたより館山寄りの島津方の前だつたと供述している。

ところが、被告人は、右<ハ>から一年近く経つた<ニ>50 10 15付(検)では、否認に転じ、石原と二人で市役所でタクシーを降りると、浅野が市役所の坂を上つて来たので三人で宿直室に寄り、被告人と浅野が先に出て本件車両のところへ行つた、浅野は助手席に乗り、被告人はエンジンをかけて暖気運転した後、後部座席に座つていると石原が来て「俺が運転するのか」と言つて運転席に座り発進させた、石原が遅くなつたのは、宿直室で電話をしていたためと思う、金谷のフエリーの信号で停止したとき、石原が「時間も遅いから帰ろう」と言つて、浅野が「行こうじやないか」と言うのにかまわず、木更津方面に向つて帰途につき、その後事故に遭つた旨供述するに至つた。

被告人は、事故現場やアサナギ病院、あるいは警察での取調べにおいて自分が運転していたと述べた理由や、運転中の出来事について述べた事情につき縷々供述しているが、いずれも合理的説明とは認められないのみならず、否認後の供述内容は、他の関係証拠と矛盾し、到底措信できないものである。すなわち、<1>石原とタクシーを降りたとき、浅野が市役所の坂を上つて来たとの点は、道路を歩いているとき本件車両に乗せてもらつたという浅野の供述と矛盾するし、タクシーが発進した後で「鳥金」を出て徒歩で市役所へ向つた浅野がそんなに早く市役所に到着することは考えられない。<2>三人で宿直室に寄つたとか、石原が電話したとかいう点は、当夜の宿直員である正司忠雄の(公)と矛盾する。正司によれば、被告人と石原が飲みに行く前に寄つたことはあるが、飲んだ帰りに寄つたことはなく、石原が電話をかけたこともない、飲み屋から石原が電話をかけて来て、有線係に切り替えたことはあると言うのである。<3>浅野が助手席に座つたという点は、前記浅野の供述と矛盾する。<4>被告人は、<ホ>52 5 4付(検)では、再び「鳥金」を出てから事故発生までの間は、記憶がない、<ヘ>52 5 12付(検)では、市役所に立寄つた記憶はなく、車に乗つた状況も思い出せないと供述しているので、右<1>ないし<3>の点は、自己矛盾の供述である。<5>金谷のフエリーのところから引返し、帰途事故に遭つたとの点は、事故現場の客観的状況と明らかに矛盾する。このように、被告人の否認内容は、他の関係証拠や客観的状況と到るところで矛盾し、到底信を措くに足りないものである。

検察審査会の議決後の再捜査(前記<ホ><ヘ>)や原審公判廷においては、被告人は、右<ニ>の供述を撤回し、「鳥金」を出てから事故発生までの間の記憶はないが、事故直後に自分は後部座席に倒れていたので、石原が運転していたと思う趣旨の供述に切り替えている。

しかし、この点も、浅野があくまで後部座席に居たのは浅野一人であり、被告人と石原は前部座席に居たと明言しているところに照らし、にわかに措信し難い。仮りに浅野が助手席(同人は運転できないのであるから、運転席に居たことはあり得ない。)に居たとすれば、同人が車外に放出されないで石原が放出されていることの力学的説明は付けられない。

そうだとすれば、被告人と浅野の両名が後部座席に居たと考えるほかないこととなるが、後部座席に二名乗車していたということは、被告人も浅野も述べていない。

被告人は、石原、浅野のほか、島津(久)も同乗していたものと思い込み、同人を捜し回つているのであるが(前記三の(2))、被告人と浅野の両名が後部座席に居たとすれば、助手席に島津(久)が乗つていたか否かは当然分かる筈であつて、錯覚を生ずる余地がない。被告人が運転席に、石原が助手席に乗つている状況ならば、後部座席の状況が分からないまま、そのような錯覚を生ずることも充分考えられるところである。

以上のように、被告人が後部座席に居たとの弁解も、採用の限りでない。被告人の警察段階での自白が、その細部に亘つてまですべて被告人の記憶のみに基づくものであるか否かにかかわりなく、被告人が本件車両を運転していたものであるとの事実は、動かすことができないものと言える。

七  結論

叙上の検討の結果、本件車両の運転者が石原又は浅野である可能性は否定されるので、本件車両は被告人が運転していたものと認められ、この点に原判決の事実誤認はない。論旨は理由がない。

注意義務に関連して若干付言すると、当夜の被告人の酩酊状況に照らし、運転不開始義務違反の疑いがないではないが、発進、走行中の供述の欠如は、後刻の記憶喪失によるものと考えられること、曲折の多い海沿いの道路を現場付近までは大きな支障もなく走行していることに照らし、現場付近にさしかかつた際における運転中止義務違反を認めることも不合理とは言い得ない。注意義務違反の構成の詳細については、後記第四において、さらに判断を示す(ちなみに、本件車両の路外逸脱の原因が左前輪タイヤのパンクにあることの可能性については、さきに指摘したとおりであるが(前記四の(3))、本件車両に標準装備されているのはチユーブレスタイヤであることを考え併せると、運転中止義務違反がなく、運転者において、正常な運転操作のできる状態で走行していたものとすれば、走行中にパンクが発生しても適切にこれに対処し、路外逸脱の事態を招くことを防止できたものと考えられるから、右可能性の存在は、前示注意義務違反の成否に影響を及ぼすものではない。)。

第二控訴趣意第二点(理由不備の主張)について

論旨は、原判決は、本件車両の走行速度を時速約六五キロメートルと認定判示しているが、右速度を認定するに足りる証拠は全く見当らないので、理由を付さずに事実を認定した違法があるというのである。

しかし、原判決の挙示する証人樋口健治の(証)、鑑定人樋口健治作成の(鑑)によれば、右事実は優にこれを肯認することができるのであつて、原判決に所論理由不備の違法はない。

すなわち(鑑)には本件車両の走行速度は時速約七〇キロメートルと記載してあるが、(証)によれば、右速度は、衝突直前の時速を基礎として、本件ブロツク塀の直前で若干速度が落ちていることを考慮し、事故地点に進入する前の速度を決めたというのであり、(鑑)によれば、衝突直前の速度は時速約六五キロメートルであるというのである。そして、(鑑)では、その具体的計算手順はあまりにも専門的過ぎるので省略するとして、数式等は示していないが、どのような事実を基礎として計算したものであるかは40ないし42頁に亘り詳しく説明しており、弁護人も、その方法論や計算手順に疑義があれば証人尋問の機会に充分これを確かめ得たのに、強いてこれを争う態度を示していない。そうだとすれば、原判決が衝突直前における時速の算出結果を採用し、衝突直前における減速という不確定な要素を排除して、これを以て走行速度としたのは、着実な認定を期したものと言うことができ、証拠に基づかない認定との批難は的外れである。論旨は理由がない。

第三控訴趣意第三点(訴訟手続の法令違反の主張)について

論旨は、本件車両内の乗員の位置関係を証明するには、工学的観点からのみならず、法医学的観点から乗員の受傷の程度、状態を分析することが不可欠であるにもかかわらず、原裁判所が被告人の法医学上の観点からする鑑定申請を却下したのは審理不尽であり、その違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであると主張する。

しかし、右鑑定申請がなされた原審第一〇回公判期日までに原審で取調べた各証拠を総合すれば、訴因につき実体判断をするに必要な資料は充分提出されており、所論鑑定を施行したとしても、従前の資料に基づく実体判断に消長を及ぼすほどの成果を期し得ないことが明らかであるから、原裁判所が同第一一回公判期日(証拠調手続の最終回)において右申請を却下したことが審理不尽に当るものとは認められない。すなわち、本件乗員三名に対する(診)やカルテ写の記載は極めて簡略であり、原審証人麻薙章吾の(証)によつてもその詳細を明らかにすることはできず、他に乗員三名の受傷状況の詳細を明らかにする資料はないから(当審における検察官の釈明によれば、アサナギ病院において石原の遺体を撮影した写真も、現存しないと言う。)、充分な資料がなくて成傷器の種類や成傷の機序、作用した外力の大きさや方向を仔細に判定することは困難と考えられ、成傷の原因が鈍器又は鈍体との衝突によることが判明した程度では、果してその鈍器、鈍体が自動車の各部あるいは路面のいずれであるかを判断するには再び工学的見地からの鑑定結果を援用せざるを得ないこととなるのである。所論のように、乗員の乗車位置を確定するために、工学的観点のみならず、法医学的観点からする検討も望ましいことは、一般論としては首肯し得ないではないが、本件の具体的場合にあつては、法医学的観点からの鑑定が本件事実認定について有用であるとは認められない。

論旨は理由がない。

第四職権調査による破棄

職権を以て調査するに、原判決は、その理由中「罪となるべき事実」第二において、本件注意義務の前提となる客観的事情として、被告人が本件車両を運転して「進行中、運転開始前に飲んだ酒の酔いのため注意力が散漫となり前方注視が困難となつたうえハンドル、ブレーキ等の操作も的確になし得ない状態になつた」旨認定説示していながら、かかる場合における自動車運転者には、(一)「直ちに運転を中止するはもとより」、(二)「敢えて運転を継続する場合は」、<イ>「より一層前方注視を厳にするととにも」、<ロ>「ハンドル、ブレーキ等の操作を的確にし」、もつて事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務がある旨判示している。

右(一)の注意義務が認められるのは当然のことながら、右(二)<イ><ロ>の注意義務は、前示注意義務の前提となる客観的事情の認定と明らかに相容れない。右認定が正しいとすれば、右(二)<イ><ロ>の注意義務は被告人に不可能を強いるものであるし、逆に、右(二)<イ><ロ>の注意義務を肯認し得るとすれば、前段の事実認定に誤りがあることとなり、両者は二律背反の関係にある。

もともと、本件訴因は、被告人が「運転開始前の飲酒により酩酊し、正常な運転ができないおそれがあつた」との客観的事情を前提とし、右(一)、(二)の注意義務を択一的に記載したものであり、「正常な運転ができないおそれ」の程度に応じ、右(一)、(二)の注意義務違反のいずれかが成立することを主張したものである。

原裁判所は、右択一的訴因につき、被告人の「注意力が散漫となり前方注視が困難となつたうえハンドル、ブレーキ等の操作も的確になし得ない状態になつた」との事実関係を認定しているのであるから(ちなみに、証拠関係に照らせば、右認定自体は妥当なものとしてこれを肯認し得る。)、訴因中の「正常な運転ができないおそれ」を右のような具体的内容のものとして確定した以上、右前提事実から導き得るのは右(一)の注意義務のみであり、これと相容れない右(二)の注意義務については、宜しくその存在を否定すべきであつたのである。

然るに、原判決は、漫然右(一)、(二)の注意義務を択一的に掲げたうえ、被告人の過失行為として「右状態のまま運転を継続ししかも同乗者との雑談に耽り前方注視を怠つたうえ的確なハンドル、ブレーキ等の操作をしなかつた」事実を認定説示しているのであるから、前提事実に対して適用すべき注意義務の解釈を誤つた結果、ひいて前提事実と矛盾する過失行為を認定するに至つたものであつて、その罪となるべき事実の認定を全体として見れば、前後矛盾し、理由にくいちがいを生じたものと言わざるを得ない(その矛盾は、原判決のした択一的認定の一方にのみ存するように見えるが、原判決の認定した前提事実からすれば、そもそも択一的認定をすること自体許されないこととなるから、全体として理由のくいちがいに当るものと認むべきである。)。

そして、原判決は、原判示第一の所為と同第二の所為とは刑法四五条前段の併合罪に当るものとして、主文において一個の刑を科しているのであるから、全部破棄を免れない。

よつて刑事訴訟法三九七条一項、三七八条四号により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により、さらに次のとおり判決する。

第五自判の判決

原判決の認定した事実(但し、原判示第二の事実中、冒頭から一二行目「をしなかつた過失により、」までの部分を、「前記日時ころ、前記車両を運転して、富津市湊方面から館山市方面に向け時速約六五キロメートルで進行し、前記場所付近にさしかかつた際、運転開始前に飲んだ酒の酔いのため注意力が散漫となり、前方注視が困難となつたうえ、ハンドル、ブレーキ等の操作も的確になし得ない状態に陥つたのであるから、自動車運転者としては、かかる場合、直ちに運転を中止し、事故発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、漫然前記状態のまま運転を継続した過失により、」と訂正する。)に原判決の適用した法令を適用し、処断刑期の範囲内において被告人を懲役一年に処し、刑事訴訟法一八一条一項本文を適用して原審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判官 草場良八 半谷恭一 須藤繁)

別紙一、二(省略)

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